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谷戸の物語01 聞き書き ー水車ー

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ポストカード「谷戸の物語」の文章は、地域の方に聞いた話を元に執筆しています。そのお話は、今の忠生地域しか知らない私たちにとってはとても新鮮で面白く、興味深く映ります。
制作にあたり行った聞き書きを、このウェブサイト上で紹介していきます。

 

「谷戸の物語」について

 

「谷戸の物語01」では、牧野仁さんにお話を伺いました。ここではその聞き書きの一部を掲載します。

水車

 

今から約40、50年前かな、鶴見川はね、よく氾濫したんですよ。大雨が降ると、川の近くに住んでる人は大変だった。私の家のすぐ下に豆腐屋さんがあるんだけど、川に面しているから、雨が降るとすぐ水没してしまって。(町田市史(発刊:上巻昭和49年、下巻昭和51年)にも「明治88月には鶴見川未曾有の氾濫」とあるように、鶴見川は昔から氾濫の多い川だった。)

 

だから水没しないように、川沿いの家はかなり高いところに建てるようになって。こう、家の下が開いてるんですね、下を人が歩けるぐらい。水を考えて作られてたんですね。
今は河川工事がすごい進んでるからね、そういうことはなくなった。

 

 

 

もう一つはね、川の落差があるところには、水車があったんですね。今はここの入り口のところに鰻屋さんがあるんですけど、昔そこはあめ屋さんだったんですよ。それでその隣が水車だった。

 

水車では、粉挽きだとか米つきをしていてたんです。醤油も絞ってた。水車のちからを使って、いろんなことができたんでしょうね。上で作った小麦を持っていくと、粉にしてもらったり、挽いたものでおそばも作ってくれました。あ、この辺はね、うどんをそばっていうんです。

 

それはね、お米はほとんどを出荷しちゃうので、この辺で普段食べるのは、うどんだったの。お米を食べるときは、古米を食べてたね。2年もの、3年ものとか。でかいタンクがあったりして、そういうところに貯めておいて。戦後なんかはね、東京からみんなここまで買いにきて、物々交換をして帰っていったって、うちのお袋が言ってましたよ。良いものは自分たちで食べないで、お金にしてた。そういう時代だった。

 

 

でも、食べ物には不自由はしなかった。自分のところで作ってるからね。味噌も醤油も自分のところで作るし。さっきいった水車に行けば、味噌も醤油も絞れる。要するに、水車っていうのは当時の機械だったからね。私は機械も好きだったから、粉を挽く機械のところにいって、そういうものをずーっと見てた。

 

 

 

写真:波田野州平

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